不二稿京のニャンコ先生のおうち

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審判

演劇親友、保村大和の舞台を観た。
「審判」
開演前に配られる用紙には、あなたが審判を下してください、とある。
何を審判しろというのか? 不明だった。
芝居は、捕虜となり、殺した仲間の肉を食べて生き残った男が軍事法廷に引き出され、
自身の身のうえに起きた事実を述べ、観客に自分の有罪無罪を問うという設定だ。

これは実際には生き残った男は発狂しているとしてすぐに殺されている。
第二次世界大戦中、ポーランドに侵攻したドイツ軍の捕虜となったロシア軍の将校七人は、
裸にされ修道院の地下牢に閉じ込められたまま、撤退したドイツ軍に置き去りにされた。
水も食糧もなく60日後、生き残っていた二人が発見された。
「彼らは食べ合っていたのだっ」発見した兵士が嘔吐しながら叫んだ言葉だという。
発狂していたとされる二人は、人間らしい食事を与えられ、すぐに射殺されたらしい。

閉じ込められ、殺し合い、食べて、発狂し、発見され、銃殺された。
フジワラにはその事実の陰惨な耐えがたい苦しみ、それ以上のものは要らない。
生き残った男に理性を与え、己の有罪無罪を問わせる意味が分からない。
秩序を守るための善悪の範疇が、極限の生死の状況で別ものに移行している場所で、
生き残るための判断を、理性と犠牲でもって行った人間の話であったからだ、
すでに無罪であると、普段の社会通念の善悪の範疇にはないのだと言っているのだから。

もしも、生き残った男が、ヴァホフが、フジワラレベルの卑小な人間であるなら、
違って思えたのだろうか?
事実を理性的に述べるに見せていようとも自己弁護の匂いを隠しきれぬ姿なら、
その人間の卑しさについて、有罪か無罪か、問われる者であるのかもしれない。
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