不二稿京のニャンコ先生のおうち

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消えてしまえ

鎖につながれた熊と犬を戦わせるショーの映像がテレビのニュースに流れたことがある。
恐怖の中で殺しあう陰惨な地獄画 興奮して喜ぶ白人ども
生き物の恐怖と苦痛を楽しむ最低の人間らめ そこにいる 存在する そんな下劣な人間どもが
地獄はこの世に存在する 悪魔は人間の顔をして暮らしている
 
消えてしまえ
虐待に快楽するおまえ この手でおまえを叩き殺してやりたい 
救いなどおまえに必要ない 消えてしまえ この空間から この宇宙から
   
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この記事のコメント

音もなく燃えて、渦巻く感情のうねり。その奥底から表出し現れる言葉は野生動物の肌のようにざらつき、刺々しくケバ立っている。それはなつかしさに近い郷愁を感じさせながら和解も救済も求めず、ただぽつんとそこにあり、安易に受け入れられることを頑なに拒絶しているかのようだ。
吐き出される言葉、そのひとつひとつの塊はあまりにも生々しく、或いはそれは人間の言葉ではない荒れ狂う自然の猛威のようで、僕はどうすればいいのか、なすすべもなく立ちすくみ眩暈がしてしまう。正視できず、見ることそれ自体が罪のように感じられ、弾かれるように思わず視線をそらしてしまうのだ。
言いたいことはわかる、できればそんな程度で終わらせてしまいたい。しかしそこからさらにもう一歩踏みこみ、熱気を放ち沸騰する井戸の底をぐっと覗き込めば、瞬く間に巻き込まれ戻れず、当事者も傍観者も被害者も加害者も私という人間の中で溶けて混ざり合い、自分がそれまで何を求め信じていたのか、僕は自分が誰なのかそれさえもわからなくなり、人格がグシャグシャに崩れていく。
情景がありありと脳裡に浮かび、見てしまったものに対しての怒りや悲しみ、憎しみに立ち会わされる。丸裸で悪意に満ちた暴力の前に放り出され、世界はそういう場所なのだということを思い出す。ああ、思い出すもヘチマもないって、俺はそんなことはじめから知っていた。ここが地獄だろう、ずっと前から知っていたし、一度だって忘れたことなどない。
その場にいなければ関係ないのか? 直接手を下さなければ罪ではないのか? いっそ裁く側にまわってしまえば清く正しい善人になれるのだろうか。裁き償わせることは権力を行使する、大義を手にした公然の暴力じゃないのか。
僕は暴力に快楽を感じないとは言えない、それは嘘だから。弱者を虐待する、人間の仮面を被った悪魔の一人は俺なのかもしれない。俺は自分の手を汚さない、卑屈な人殺しのような人間かもしれない。
実際は何もしていないし、何もしなかった。それは事実だ。しかし真実は、どこにある。或いは俺はただ運が悪く、たまたまその場に居合わせてしまったのかもしれない。被害者も加害者も当事者も傍観者も、演じた立場こそ違えど強制的に巻き込まれ参加したつもりのないロシアンルーレットに無根拠に選ばれて、俺はその場に暴力的に無理矢理立ち会わさせられてしまったと、そうは言えないだろうか。しかしきっと確かに俺はそこにいたのだ。そこに渦巻いていただろう、憎しみや悲しみ、恐怖が想像できるのだから。
今だって、眼を閉じればありありと体感を伴った情景が浮かぶし、そこにいるような気さえする。しかしまた、だからといって、何故見ず知らずの何者かの死を俺が背負い、引き受けていかねばならないのか。俺がどんな人間だろうと実際に何もしていない以上、誰にも俺を裁くことなど出来やしない。それなのに俺は逃げられない、どんなに時間が経ってみても。つまりは結局、既に俺は裁かれ囚われ続けているのだ。自分を守る、弁護する為の言葉をどれだけ並べてみても自由にはなれない。
一歩外に出れば、すれ違うすべての人間が無言のままその眼の奥で俺を咎めているようだ。裁き続ける彼等の眼は、望まない役割を押しつけられ戸惑い、恥にまみれ狼狽しているようでありながら同時にそれを狡猾に楽しんでいるようでもあり、頑なで冷たく凍り付き怯え硬く強ばり、油の染み込んだ工場のガラス窓のようにどんよりと曇り濁っている。奴等、お前等はどこまでも俺につきまとい赦さないつもりなのか。名前のない、ゴムで出来た仮面のような顔をした陪審員たち。無自覚で盲目的な言葉の奴隷、大嘘つきの偽善者ども。お前等は目の前にいる人間を都合よく利用して綺麗事を吐き、免罪符をぶら下げながら暴力を振るう、自分の感情に酔っているだけだろう。まるで自分だけが唯一の真っ当で正しい素養を持つ人間であるかのような素振りで、我がもの顔で他人を裁き、当たり前みたいな平気な面して街を歩きやがって。俺が社会から消えるべき最低の人殺しならば、お前等だって同じ、人殺しだ。逃げ切れない、どうして俺はこんな人間なんだ。
喋る程、言葉を重ねる程に感じたことからは遠くなっていく。勿論語るなんてことにそれ以外の目的はなく、意味を捏造し入口と出口のある空間、物語を設定して語り終えることによって遠く離れた気分になり、罪を洗い流し抜け出したつもりになりたいのだろう。
固く握りしめ振り上げる拳、振り下ろすことなど出来ない。うずくまり、抱え、受け止めるしかないのだ。
/[B面]
省みず突き進み薮を突くトリックスター。薮を突かなければ蛇は出てこなかったかもしれない。しかし蛇は確かにそこにいたのだった。
カタチは色々あるだろうけど、表現者や芸術家という存在はつまり社会に対してのトリックスターなのだろう。
トリックスターとはいったいなんであるのか。引用すれば、トリックスターとは「神話や物語の中で神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物」であり、また「文化的英雄(火を盗んだりする)であると同時に悪しき破壊者でもあり、あるいは賢者でありながら悪者であるなど、法や秩序からみれば一貫性を欠いた矛盾する役割」を担う、そういった存在なのだそうだ。
そういえば巷ではKYなんていう言葉の流行りがあるらしく、空気が読めるとか読めないとかで優劣を計り選別し、場を乱さないことがあたかも社会性のある真っ当な人間であるという風にしているみたいだけれど、要するにわからないものを抱え続ける状態の不安に堪えられず、了解事項の予定調和の中に納まって安心したいっていう、ただそれだけのことのように思える。所謂、囚人と看守を同時に演じ分け互いに互いを監視し合い縛る、同調圧力ということなのだろう。既成のルールを守ることが殆ど手放しに立派なこととされ、なぜそれがあり必要とされているのかそれ自体を疑うことはしない。けっきょくメンドクサイから思考放棄して、大多数の価値に乗り従うだけ。
人のことは知らないけれど僕はそんな社会は退屈で息苦しく、窒息しそうだ。なによりもそういう人達は自分の顔を本当に簡単に捨てるから、恐くて仕方がない。
僕はドキドキしながら、もう困るよなとそう思いながらトリックスターの次の一手を待つ。でも俺だって待つばかりじゃなく知らないふりしてはみ出して、恥ずかしながらと謝りつつこっそりペロッと舌をだし、ちょっと失礼してご迷惑おかけしてしまいたい。芸術は爆発だって、かの有名なトリックスターは言ったのだ。冗談じゃなく、たぶんそれはホントに本当で、つまり創造するってことはそういうことなのだから。壊し、また真新しく誕生する瞬間に立ち会い続けたい。僕たちはきっと宇宙の片隅で踊り続ける子供、そう想ったっていいだろう。下を向き、泣く為に生まれてきたんじゃないんだ。
2009-08-02 Sun 10:08 | URL | ぐっち #-[ 編集]

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