不二稿京のニャンコ先生のおうち

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恥ずかしがる

ゴミ屋と自分らを呼ぶおっちゃんらがいる。フジワラも紅一点その仲間で。皆、愛想よく明るい現場だ。けれど、外への顔は人生色々だ。ある昼どき、なかでも気難しいおっちゃんがこぼしてた「こんな仕事若いうちからやるもんじゃない、俺だって親戚にゃあ言ってない、ゴミ屋やってるなんて恥ずかしくてよ」
自分だけ恥ずかしがってろよ、なんてこと言うんだおっさん、とフジワラは自分まで恥ずかしがられたことに嫌な気分になった。確かに汚れる。他人の捨てたゴミさ。けどやましい仕事じゃないぜ。立派なもんさ、人間どものゴミを片付けてんだ。恥ずかしがってるお前の偏見を恥ずかしがれよ。
 
ところが・・
フジワラが紹介してこの春からゴミ屋になった仲間の一人に、親から「元気にしてますか、仕事は見つかりましたか?」とメールが来た。正直で律儀な青年はそこで嘘をつくしか出来なかった。ゴミ屋の仕事を隠した。なぜ?  世間に恥ずかしがってるわけじゃない、親への想い、心配させたくない・・・ああ、そうだね、そうだ分かるよ、フジワラだって、まだ子供が小さかったら、子供のために恥ずかしがったよ。そうだね。
人は社会や家族に向かって色々恥ずかしがる、仕事や身なりや自分の容姿や、自分のつれあいさえ。
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この記事のコメント

今回の話、特に自分にとって身につまされるものがありました。
恥の意識、感情っていったい何なのだろうかと、あらためて深く考えさせられました。何故こんなにも不自由で生きることそれ自体が息苦しく、やり切れないのか、今も考えています。
人間をみつめ描く姿勢、立つ姿にはいつもながら本当に驚かされます。
今の日本の社会にまだ芸術家、表現者、ものを想い思索し言葉を発する人間っているのかとよく思うのですが、ここにちゃんといるじゃねぇかと愕然とします。
物が溢れ、街を歩けば新しい商品の広告だらけで、相変わらず映画やTVドラマや小説や音楽や、演劇なども沢山作られているようだけれど、そういったものは全部いったい何の為に、誰の為にあるんだろうかと疑問を感じます。
無言の偏見の圧力に負け、のみ込まれて自分も周囲の仲間をも恥じてしまう、結局自分自身も見下し蔑む偏見に加担しているおっちゃんという人の弱さは俺の、私という人間の弱さでもあるように思えました。
恥じるのは自分の弱さ、みみっちい心の貧しさだけだろうと、また足元が震え、しっかり立たねばならないと言い聞かすように繰り返し思います。
感情の整理がつかない状態のままでうまくまとまらず、しかし言葉で取り繕ってごまかしても仕方がないとも思いますが、取り留めないコメントになりすいません。失礼致しました。

2009-06-26 Fri 16:13 | URL | ぐっち #-[ 編集]
ならば、君もフジワラと表現者の極道者として生きてみませんか。身も心も傷だらけの歯をむき出す野良でありながら、最も弱い者に背中を踏まれて水たまりで溺れる、そんな愚か者に、君も。
2009-06-26 Fri 17:19 | URL | 京 #-[ 編集]
ごみ収集だけでなく、清掃の仕事は、尊く立派なお仕事です!!
心からそう思います。

私は自分の仕事「ぶり」が、恥ずかしい。
いろんなものに押し潰されて、弾き返されてしまう、
貫くことができない自分の信念が、
自分の無力さが、涙が出るほど、恥ずかしいです。
2009-06-28 Sun 22:51 | URL | のり #-[ 編集]
のりさん、

押し潰されることなんか恥ずかしがるな。自分を押しつぶすものを怒れ。怒りの剣を突き上げて、七転び八起き、七転八倒、かなわぬ世間の無知無能無責任に押しつぶされて怒り泣くそののりさんのぶざまさがフジワラは大好きです。
2009-07-01 Wed 14:36 | URL | 京 #-[ 編集]
響く「ならば」の言葉に震え、ゆれる足。倒れない為には足を前へと出さねばならない、そう思いながら続く無粋な言葉をまた手探りで。声もだせず棒キレをやっためたら振りまわす、そんなことかもしれない。暗闇の中で裸足のまま、進んでいるかもわからず足を出す。今なにかを踏んだ、それは誰かの頭か硝子の破片なのか。苦し紛れ逃げるよう吐き捨てるように叫ぶ。足元を照らす光などあるものか/
極道者か、或いは外道者なのか。どのみち俺は、どう足掻いてみても既存の社会の要請に従う形では、そういう意味ではまっとうには生きられそうにありません。殆ど諦観の心境であり、自分には所謂普通の人間らしい生活の幸せなどは求めようもなく、得られないだろうと諦めています。太宰治の『人間失格』ではありませんが、自分にとって人間、他者という存在はただ恐ろしいばかりで、人が何を求め生き、生活をしているのかそれさえよくわからず、あまりにも自分とはかけ離れているように感じられ、隣人と何を話したらいいのかわからない、そもそも人間らしい生活の幸せというものがよくわからないのです。
文化も芸術も名ばかりで、結局のところ軽くて流通させやすい中身のないものしか必要としないスカスカの消費社会、資本主義社会の価値観とはどうしても相入れないというか、競争好きの所謂野心家でもないし、まったくついていけないので。
しかしそれにしても思うのは差別とか偏見とか、そういった心性は人間にはなくならない、普遍的なもののようにも思えます。「私」というあやふやな存在を支えようとした時に、敵とか味方とか優劣とかそういった区分をつけて自己の輪郭を保とうとする。お金がある人、お金がない人。容姿が綺麗な人、容姿が綺麗じゃない人。平面的な価値観で統一した方が物を売りやすい、商売しやすいから、マスメディアが率先してそうなるように仕向けている気がしてなりません。やれ車を買え、家を買え、化粧品を買え、フィットネスジムに通え、男もエステに行け、などと。金がない奴は社会の役に立たないからもっと努力して稼げ、ホームレス、ニート、引きこもり、派遣労働者なんてのは怠け者のクズであんな奴等はどうなろうが自業自得、自己責任だろう、みたいな暗黙の感情は案外根が深いように思えます。
今の社会の形態(主流の利益)からしてみれば、その人自身の固有の価値観なんかを持って生きられたら、とっても迷惑なんじゃないでしょうか。ちゃんと責任持って社会化しろ、自分のことばかり考えないで大人になれとか、そういう文句で抑えつけてくる。たしかフランスの哲学者が現代の社会を形容してソフトな管理社会、檻の見えない監獄って呼んでましたが、まったくその通りだと思います。「ゴミ屋」という仕事、社会的役割が「恥ずかしい」のは、恥ずかしがらせたい人間が沢山いるからなようにも思えてなりません。得体の知れない人間がいるのは不安だし、同じ価値観の枠組みの中で「みんな」生きていた方が安心できる。日本は人種の違いがあまりないから表向き分かりにくくて、人種差別はよくないとか、馬鹿馬鹿しい正論を自分の意見として平気で口にする人間がけっこういるけれど、人は元々自分という存在を正当化する為に差別をせずにはいられなくって、巧妙に区分けして上手に差別しまくってるじゃねえかと、そういう気がします。正論の楯の裏側に隠れ、それにも拘わらず隠れてない気になって自分自身を騙しているというか。
「どんな仕事にも価値があり、社会には必要なものだから尊い。それが人の嫌がる仕事ならば尚更そうだ」なんてのは反感を抑えつけ社会から離脱させない為の、そこに縛り続ける為の常套句で、そんな歯の浮くような嘘でごまかしたって実際にそういう仕事をやっている人でそんな風に言われて心から本当にそうだと、納得出来る人なんて一人もいないんじゃないでしょうか。だったら代わってくれよって、そう言いたくなると思います。しかし言いたくても言えない、口にすることで余計自尊心が傷つき自分が恥ずかしくなる。聞きたくないことは言わせないように封じ込め、正直な当事者の感情その存在自体を否定してしまう、それが無自覚な正論の怖さじゃないでしょうか。
単純に仕事ってのは毎日やるもんだから、何年もやり続けてると綺麗事なんか聞いてられないっていうか、話になりませんよね。俺もそういう生活をしてきたけど、毎日毎日ドロドロになって、人からはいくらでも交換可能な部品みたく軽く雑に扱われて、仕事が終わって解放されても体に臭いが染み付いてとれなくて、電車に乗れば綺麗な姉ちゃんは俺を避けて露骨に嫌な顔してよけるしよおって、歳をとればとる程そりゃあきつくて当然だと思う。でも、だけど、だからこそ歯ぁ食いしばってしっかり立てよコンチクショウ、って自分にもオッサンたちに対しても思うわけであって。震えながらでもいいから必死に胸張って、俺は誰のでもない俺自身の旗を掲げて生きてんだって。崖っぷちで、生きることそれ自体を噛み締めてんだぜ、って。
俺は、踏んづけてんのか踏んづけられてんのか、わかりゃしない。本当は人のことなんて何も言えない、とてもじゃないけど責められたもんじゃない。ただ自分が信用できない、誰よりも弱い人間だと知ってるからこそしっかり立ちたいと願う。
京さん、俺は水溜まりをロマン溢れる壮大な海だと本気で勘違いして一人で勝手に溺れている、きっとそういう愚か者の中の愚か者、ただの馬鹿です。せめて笑って赦して貰いたいと、よく思います。
俺は、京さんに名前を呼ばれると嬉しいです。京さんの口にする「水口君」という響きがただ好きです。あと電話を切る時の口癖、「んじゃねぇ~」とか。
自分で自分が信用できずあやふやな俺は約束のような言葉を口にするのが恐くて、道を極めるとか外れるとかそういうのもよく分からなくて、ただ滅多に人を好きになることがない自分が好きになったから、一緒にいて何かを創りたいとよく想うっていう、それだけという気がします。
長ったらしくなり、すいません。文才のなさからか、言いたいことが書けた気にはなれずとても歯痒いのですが、しかしキリがないようにも思えるので、このへんにしておきたいと思います。では、失礼致しました。
2009-07-05 Sun 09:04 | URL | ぐっち #-[ 編集]

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