不二稿京のニャンコ先生のおうち

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「お金の話 2」

お金の話になると物悲しくなる。それは、私がタカリだと自覚しているからだ。
「公園の○○ちゃん、具合悪いみたい。見てやってくれますか?」とかって餌やりさんからメールが来る。
自分で病院連れてけば、と、思いながらも、何とか捕獲して病院に連れてゆく。病院代金は「お外の猫扱い」で安くしてもらう。
それからみなしご猫基金の友に電話する。「公園の猫の病院代が・・、でも、もう無いですよね・・」「あるわよ、取りに来て」

お外の猫の為のみなしご猫基金、しょぼい私は月に三千円しか振り込まない。残りは全部、友が入れてくれるお金だ。
障碍者の彼女は時々言う、「もう生きていたくないの」。全身が不自由で全身が痛む人だ。私はどんな言葉も浮かばずただ、曖昧に微笑み返すしか出来ない。痛みの人生から解放されたいという人に、「でも・・、猫たちの為に生きてましょうよ」と、残酷な事を言うしかないから。彼女が亡くなったら、私にこれ以上、外の猫たちを助ける力は・・無い・・よね、きっと。だって、当てにしているんだもの、きっと、彼女がお金を出してくれると。私はこの気高い友に、タカリをして猫たちのことをやっているんだもの。

愚か者の私は、自分の分をわきまえず、よその国の子供の養育費に月に五千円を振り込んでいる。後悔している。早く大人になってくれないかな、そしたら、その分もまわして基金に月に八千円・・とか考えたりする。その子の存在を邪魔に思ったりしている。・・・・ごめんね・・。

飯館村の捨て犬を引き取った、と、彼女に少しだけ報告した。心配するに決まっているから。案の定、「大変よ、犬はたくさんお金がかかるのよ」と言い始めたから、「よーし、頑張らなくちゃ、よーしよーし!」と、言葉を切って、電話も切った。彼女にはタカリタクナイ、それを当てにして引き取ったつもりはないから、と、自分に言い聞かす。
けれど、実際には、散歩ひとつ出来ていない。暴れん坊のチロの散歩は連れ合いの彼が引き受けて、朝夕公園を走り回っている。犬用フードも彼が買ってきた。私は、自分で勝手に引き取りながら、世話を彼にさせている。愚痴も文句も言わず、雨の日も風の日もチロの世話をしてくれるだろう。愚直と言えるほどの彼の一途さにタカッテ、犬の世話をさせるのだ。

この二週間、十人の方から、支援のフードが送られてきた。これから送りますね、という連絡も数名の方からあった。正直、目茶目茶有難い。けれど、後ろめたいのだ、有難いと思えば思うほど、申し訳ない気持ちになる。あさましく喜んでいる自分に気が付く。

私は、自分のわがままな生き方の為に、周りの人にタカリをして生きている。自分の分を越えて、思うままに、やりたい放題に迷惑をかけて生きている。 
人間に制圧された痛ましい命たち、人間に酷い目に合わされている悲惨な命たち、どうしてどうしてそんな悲しい命がこんなにもいるのだ
どうしてどうして私はこんなにもあさましく、ちっぽけなのだ
どうしてどうしてこんな私の周りに、気高い魂の人らがいてくれるのだ
どうしてどうして・・、イノチであることは悲しみと同じなのだ、残酷さと同じであるのだ・・

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